2009年06月29日

根本規範などとも呼ばれ

これらは、根本法理、根本規範などとも呼ばれ、憲法改正手続を経たとしても否定することはできないと考える(限界説)のが多数説である。

ただし、この改正限界説に立っても、例えば基本的人権尊重主義については、基本的人権の尊重という原理が維持されていれば、個々の人権規定を改正することは可能である。例えば、個々の人権の規定を改正しても基本的人権の尊重を否定する内容でなければよい。
このように、自由主義・民主主義、そして平和主義は、基本的人権の尊重・国民主権(主権在民)・平和主義(戦争の放棄)という日本国憲法の三大原理の背後にある考え方として尊重・保障されている。他方、日本国憲法には、自由主義・民主主義・平和主義に一見対立するとも見られる考え方も、その内実として含む。自由主義に対しては「公共の福祉」が、民主主義に対しては間接民主制が、平和主義に対しては自衛権の行使が各々対峙する。しかし、これらは、両者を伴って初めて安定的に機能する仕組みであると言える。
英語の上達秘伝!
学べる東京の専門学校
休日の安いショッピング散歩
賢い消費者金融の見つけ方
おみくじ道のプロローグ
人材派遣の登録の仕方!
就職・転職ガイドの教え
美容サプリ情報案内
男道の格闘技、武術を学ぶ
全国制覇お笑い芸人誕生
特報・働くお父さんの求人情報
歴史の足跡魅力を紹介
アウトドアアイテムの紹介
旅行、観光は私におまかせ!
大冒険気になる仕事をチェック!
吉日の海外ツアー大作戦
めだかの探偵物語
ガイアの手術体験記
マザー離婚のタイミング
安い部屋探し
雑貨の世界紀行
家族でオートキャンプ


基本的人権の尊重とは、個人が有する人権を尊重することをいい、自由主義と平等主義とから成る。

憲法で自由主義原理が採用されるのは、“個人に至上価値を認める以上は、各人の自己実現は自由でなければならないからであり、また、自由は民主政の前提となるもの”だからである。

自由主義の内容を人権面と統治構造に分けてみると、

人権 自由権の保障 第3章 11条 97条
統治
権力分立制 41条 65条 76条(国家権力の濫用防止のため)
二院制 42条(慎重・合理的な議事のため)
地方自治制 92条?(中央と地方での抑制・均衡を図るため)
違憲審査制 81条(少数者の自由確保のため)
となる。

2009年06月12日

セマンティックネットワークは、知識を表すために

セマンティックネットワークは、知識を表すために使われるかもしれない。個々のノードは概念を表し、ノード間を結ぶ弧は概念間の関係を定義するために用いられる。

1960年代から、知識フレームまたは単に「フレーム」と呼ばれる表現が使われている。フレームは値を持つスロット群から構成される。例えば、「家」のためのフレームは「色」スロット「階数」スロットなどを含むだろう。

フレームは、「is-a」リンクで表される継承機能によってオブジェクト指向プログラミング言語のような使い方もできる。しかし、「is-a」リンクの使用については、少なからぬ矛盾があった。ロナルド・J・ブラックマンは「IS-Aは何であって、何でないか」と題した論文で、知識表現に関するプロジェクトで29種類の意味で「is-a」リンクが使われていることを示した。他のリンクとして「has-part」リンクなどもある。
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争


フレーム構造は大まかな知識と型にはまった認識パターンの表現に適している。そのような大まかなパターンの要素は、個々に重み付けがなされ、スキーマの要素としてより典型的なものほど重要度が高くなる。パターンはある種の期待値に従って起動される。例えば、大きな鳥を見た者が「陸スキーマ」ではなく「海スキーマ」を起動していたら、その鳥をイヌワシではなくオオワシだと判断するだろう(訳注:イヌワシは山岳に生息し、オオワシは海岸に生息するので、スキーマによって判断が変わってくることを意味している)。

フレーム表現はセマンティックネットワークよりオブジェクト中心の考え方である。ある概念に関するすべての事実と属性は一箇所に置かれ、データベース内を手間をかけて検索する必要がない。

「スクリプト」は、事象を時系列に記述するフレームの一種である。通常、例としてあげられるのはレストランへ行くことの説明である。それには、席に案内されるのを待つとか、メニューを受け取るとか、注文するといったステップが含まれる。

2009年06月07日

装飾目的の旗の一部を除けば、位置や図案によって

装飾目的の旗の一部を除けば、位置や図案によって何らかの意味を保有している。

位置による意味
手旗 - 航海士やスポーツ競技の審判が使う手旗は、位置により様々な意味を持たせた代表的な例である。手旗を揚げる者は1つまたは種類の違う2つの旗を持ち、上げ下げや腕との組み合わせたポーズを予めルールや規約にとりまとめて旗を見るものに視覚的に情報を伝える。
半旗 - 弔意を表すために旗の布部分を竿の中ほどまで掲げたもの。詳しくは該当項目を参照のこと。
健康 ペット 楽器教室 スポット 学校 交通地図 メイク 宣伝 フレグランス 賃貸 損害保険 健康 賃貸 抜け毛 サプリ 介護 ショップ 予備校 北海道東北 スクール 観光 しみ取り 法人設立 コスメ SEO対策 プレゼント 介護 乗り物 アレルギー 教材 専門学校 アウトドア 電器製品 セミナー 国内 パソコン 九州沖縄 ネイル マンション SEO対策 旅行代理店 趣味 介護 化粧品 アレルギー 特産品 学習 交通 家庭教師 中国四国

単純な2値(真偽)の伝達 - 予め取り決めた命題が真であるか偽であるかを伝える。コンピュータアーキテクチャにおけるフラグの語源はここからきている。
応援団旗 - 往々にして大きな旗であり、棹を左右に振って翻らせ、応援する意思を知らしめる。
図案による意味
国旗を含む団体を表す旗 - 旗の立つ場所や持つものがその図案が示す団体に帰属していることを表す。様々な団体旗が集合している場合、掲げられた団体が一堂に会していることを示している(但し、万国旗は装飾の意味合いが色濃いことがある)。詳しくは国旗、校旗などを参照のこと。
優勝旗 - 団体競技の大会において、優勝したチームに贈られることがある。
白旗 - 降参を表明するときに用いられる。
大漁旗 - 元来は漁船に掲げて、帰港時に漁獲高が多かったことを知らせる目的で使われた。新しく漁船をあつらえた際に親しい人から贈られる。一般に吉祥文様が描かれ、結婚など船の新調以外でも祝いの品として贈られることがある。
その他、文字を図案に施し、施した文字の意味を旗に持たせることが多い。
立てられた場所による意味
目印
旅行代理店等の添乗員が持つ手旗…パッケージツアー等で、団体行動の目印として用いられる。
ゴルフ場の旗(ピン)…グリーン上のホールの位置を示す。
色彩による意味
鉄道等交通機関の運行に際して、信号機の代用として手旗により進路の状況の伝達手段として使われる。(赤旗を振る=止まれ等)
同様に、工事中の箇所において、工作機械や進来物から安全な場所に退避が完了していることを示すため「白旗」が用いられることもある。

主に消防などの分野では消防隊や消防団の部隊が功績や実績を挙げた場合、その部隊に対して竿頭綬が授与され、その部隊の実績を明らかにすることができるようになっている。


2009年04月24日

クリーク戦争とニグロ砦

アンドリュー・ジャクソンはニグロ砦を排除したがっていたが、それはスペイン領内にあった。1816年4月、彼は、スペインがその砦を排除しないのなら彼が排除することを、西フロリダ総督に知らせた。総督は、彼には砦を取り返す手段がないと返答した。ジャクソンは、エドモンド・ペンデルトン・ゲインズ(en:Edmund P. Gaines)准将を砦の対処に割り当てた。ゲインズは、フロリダの境界のすぐ北のフリント川(en:Flint River (Georgia))に、スコット砦を造るようにダンカン・ラモント・クリンチ(en:Duncan Lamont Clinch)大佐に指示した。そして、ゲインズは、ニューオーリンズからアパラチコーラ川経由でスコット砦へ供給するという彼の意志を明らかにした。これはスペイン領とニグロ砦を通り過ぎることを意味していた。ゲインズは、スコット砦に供給するのにアパラチコーラを使用することは、米国陸軍がセミノールとニグロ砦を監視することになり、そしてもし砦から補給船へ発砲するならば、それはアメリカ軍に砦を破壊する口実を与えるであろうとジャクソンに伝えた。

ウエスタンまなび学習検索エンジン
からすもり レジャーCOM
しわ取り・コスメチック関連最新コスメチック総合
キャッシング・アフィリエイト関連ビジネスオンラインネット
プレゼント・生命関連ライフスタイルパートナー情報
整体・抜け毛関連家庭の医学・健康COM
バイク・化粧品関連ショッピングライフガイド
ヘリオス教育情報
キャンプ場・ホテル関連リゾートCOM
フレグランス・バストアップ関連コスメチック倶楽部全国情報ガイド

スコット砦への供給船隊は、1816年7月にアパラチコーラに到達した。クリンチは100人以上の米兵とおよそ150名のクリーク族の軍隊と共に、アパラチコーラを進軍した。供給船隊はニグロ砦でクリンチに出会い、そして船隊を率いた2隻の砲艦が、砦から川を横切って位置についた。砦の黒人は、アメリカ兵と彼らのクリーク同盟軍に向けて大砲を発射したが、しかし大砲を向ける際の訓練も経験もなかった。アメリカ軍は撃ち返し、そして、砲艦によって撃たれた9番目の発砲は、砦の火薬庫に落ちた。この結果起こった爆発は、ペンサコーラから160km(100マイル)以上離れたところでも聞こえて、砦を破壊した。砦にいたおよそ320名のうち、250名以上は即死し、そして、さらに多くの人はすぐ後に負傷により死亡した。砦の破壊の後、アメリカ陸軍はフロリダから撤退したが、アメリカからの不法入居者と無法者は、セミノールに対して襲撃を実行し、インディアンを殺して、彼らの奴隷と牛を盗んだ。アメリカの白人によって遂行された殺害と窃盗に関する憤りは、セミノールたちの中で広まり、それは報復と、特に入植者から牛を盗むことに通じた。1817年2月24日、セミノールはジョージア州カムデン郡在住の女性、ギャレット夫人と、彼女の3歳になる子供と生後2か月の子供を殺害した

第1次セミノール戦争

第1次セミノール戦争の始まりと終わりの日付はしっかりと確立されていない。米国陸軍歩兵隊では、1814年から1819年まで続いたとしている[12]。アメリカ合衆国海軍の海軍歴史センターは、1816年から1818年としている[8]。別の陸軍サイトは、1817年から1818年としている[13]。最後に、第5野戦特科第1大隊は、戦争は唯一1818年に起こったと記述している。

フロリダのセミノールに影響する次の大きい出来事は、1813年から1814年のクリーク戦争であった。1814年、アンドリュー・ジャクソンはホースシュー・ベンドの戦いでクリーク族のレッド・スティックス一派(en:Red Sticks)に打ち勝った後に、国民的英雄となった。彼の勝利の後、ジャクソンはクリーク族にフォート・ジャクソン条約(en:Treaty of Fort Jackson)を押しつけ、ジョージア南部と、アラバマ中部および南部のクリーク族の土地を収奪した。この結果、多くのクリーク族が、アラバマとジョージアを去ってフロリダに移動した[15]。

1814年にも、アメリカ合衆国と交戦していたイギリスは、西フロリダのペンサコーラや他の場所に軍隊を上陸させ、インディアンの同盟を編成し始めた。1814年5月、イギリス軍はアパラチコーラ川の河口に入り、セミノール、クリーク、および逃亡奴隷に武器を配った。イギリス軍は上流に移動し、プロスペクト・ブラフ(en:Fort Gadsden)に砦を築き始めた。ジャクソン将軍率いるアメリカ軍は、モービルへの攻撃によってイギリス軍と彼らのインディアン同盟軍を撃退した後、ペンサコーラからイギリス軍を追い出した。しかし、プロスペクト・ブラフの砦は機能し続けた。米英戦争が終わったとき、イギリス軍部隊は、イギリス海兵隊のエドワード・ニコルズ少将を除いて西フロリダへ去った。彼は、大砲、マスケット銃、および弾薬を砦に供給することを指示し、ガン条約が、ジョージアとアラバマのクリークの土地を含む、戦争の間に失われたすべてのインディアンの土地の復帰を保証するとインディアンに伝えた。しかしセミノールは、砦の守備には関心がなく、彼らの村に戻った。1815年の夏にニコルズ少将が去る前に、彼は地域の逃亡奴隷に砦の占有をするように誘った。この砦の噂は広まり、それはすぐにアメリカ南部の白人たちに「ニグロ砦」と呼ばれるようになった。彼らは自分たちの奴隷が逃亡したり反乱したりする危険な予感として砦を見なした

2009年04月06日

R・ケリー

R・ケリー(R. Kelly、本名:Robert Sylvester Kelly、1967年1月8日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身のR&Bシンガーソングライター、音楽プロデューサー。

母ジョアンと3人の兄弟たちと貧困の中、幼少期を過ごし、チャカ・カーンやダ・ブラットを輩出したケンウッド・アカデミーに入学。音楽を学び、まずはR・ケリー& MGMというグループとしてキャリアをスタートさせたが内輪もめの末脱退。 その後BlackgroundレーベルCEO でありグラディス・ナイトの元夫バリー・ハンカーソン(Barry Hankerson)に1990年に見出されR・ケリー&パブリックアナウンスメント(R. Kelly & Public Announcement)としてメジャーデビューをはたす。ニュー・ジャック・スウィングの波にも乗り一躍その名を知られる存在となる。

1992年にソロアルバム 『ボーン・イントゥ・ザ・90'S』をリリースし、「シーズ・ガット・ザット・バイブ(She's Got That Vibe)」などヒット曲を出す。1993年秋、アルバム『12プレイ』(リリース時の邦題は『愛の12プレイ』)をリリース。「バンプ・アンド・グラインド(Bump & Grind)」はビルボードポップチャートで一位になるほか、「セックス・ミー(Sex Me)」、「やみつきボディ(Your Body's Calling)」などもヒット。

1994年には バリー・ハンカーソンの姪だったアリーヤのデビューアルバム「エイジ・エイント・ナッシング・バット・ア・ナンバー(Age Ain't Nothing but a Number)」をプロデュースする。当時27歳だったケリーと15歳のアリーヤは婚姻届を提出したといわれている。 しかし、年齢詐称で結婚は破棄され、そこでケリーとアリーヤは公私ともに関係に区切りを付けることになる。アリーヤが2001年8月25日に若くして飛行機事故で亡くなった時は大きなショックを受けたとされている。

自らの名をそのままタイトルにしたアルバム『R・ケリー』を1995年にリリース。400万枚以上を売り上げる。「ユー・リマインド・ミー・オブ・サムシング(You Remind Me of Something)」(1995年のポップチャートトップ5、 R&Bチャートでは1位を記録)、「アイ・キャント・スリープ・ベイビー(I Can't Sleep Baby (If I))」、アイズレー・ブラザーズ(Isley Brothers)で知られる伝説的なR&B歌手、ロナルド・アイズレー(Ronald Isley)との共作「ダウン・ロウ(Down Low (Nobody Has To Know))」などヒットを続けて出す。アルバム以前は「12プレイ」収録曲の歌詞や若すぎたアリーヤとのゴシップもあり性的に異常な人物だと思われていた。このころソングライターとしての才能も開花させR&Bグループのチェンジング・フェイシス(Changing Faces)、ジャネット・ジャクソン(「どんなときも、どこにいても(Any Time, Any Place)」)、マイケル・ジャクソン(「ユー・アー・ノット・アローン(You Are Not Alone)」)などをプロデュースし、それらを続けざまにヒットさせる。 「ユー・アー・ノット・アローン」はビルボードホット100で1位になった。

マイケル・ジョーダン主演映画『スペース・ジャム』(1996年)サウンドトラックに「アイ・ビリーブ・アイ・キャン・フライ(I Believe I Can Fly)」を提供。 この曲のヒットの後押しを受けベストR&Bソングと2つのグラミー賞を獲得。 また、ソング・オブ・ザ・イヤーとレコード・オブ・ザ・イヤーに選出される。

ケリーは1998年「性愛」と「ゴスペル」という彼の二つのコンセプトを明確にさせる二枚組アルバム『R.』発表。セリーヌ・ディオンとの共作で「アイム・ユア・エンジェル」と題されたファーストシングルはヒップホップ/ R&Bチャートでは5位だったが、ビルボードポップシングルチャートでは2度目になる1位を記録する。『R.』は800万枚以上を売り上げケリーの最もヒットしたアルバムになった。

2000年アルバム『12プレイ』の続編として『TP-2.com』(Twelve Play-2の意)をリリース。「フィエスタ(Fiesta)」ではジェイ・Zをフィーチャーした。その後、客演返しともいえるジェイ・Zの「ギルティ・アンティル・プローヴン・イノセント(Guilty Until Proven Innocent)」などを経て、ヒップホップ界とR&B界それぞれの「最高」を名乗る「ザ・ベスト・オブ・ボース・ワールズ」を2002年にリリース。トラックマスターズ(Trackmasters)のサウンドで絶頂の人気を誇る二人のトップスターが共演することになる。しかし、R・ケリーと未成年の14歳少女との性行為や少女の排泄を撮影したビデオテープの存在が明らかになり、瞬く間にインターネット上でも公開され話題になる。ほかにもいくつかの同様なスキャンダルが噴出し、本来バックアップされるべきのシカゴでもラジオ放送拒否などにあい風当たりが強くなる。「R&B界のハーメルンの笛吹き男」と揶揄されたりもした結果、アルバムは商業的には失敗に終わる。

苦境の中、アルバム『Loveland』を制作するが正式なリリース前にインターネットへの流出や海賊盤が横行し発売中止を余儀なくされる。しかし、その後すぐに「チョコレート・ファクトリー」(2003年)の制作をはじめ、「イグニッション(Ignition)」、「スネーク(Snake)」などをヒットさせていく。 1970年代スタイルの「ステップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラヴ(Step In The Name Of Love)」はロングヒットを記録。

プロデュース業でもアイズレー・ブラザーズの「ボディ・キス(Body Kiss)」 を一位に導き、現在は解散したオマリオン擁するB2Kの「バンプ・バンプ・バンプ(Bump, Bump, Bump)」、キャシディ(Cassidy)の「ホテル(Hotel)」、ジェニファー・ロペスなどでもヒットを飛ばす。ベスト盤「グレイテスト・ヒッツ・コレクション:Volume 1」をリリースすると続けざまに「ステップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラヴ」の流れをくむ「ハッピー・ピープル(Happy People)」を収録した2枚組アルバム『ハッピー・ピープル/ユー・セイヴド・ミー』を2004年リリースした。「ユー・セイヴド・ミー」は神への賛歌で、「ハッピー・ピープル」とは違った特色を持っている。アルバムは発売一週間にアメリカで40万3000枚売り上げ、ヒットチャートでは2位を記録する。

同年10月には前回の汚名返上とばかりに再びジェイ・Zとの共作アルバム『アンフィニッシュド・ビジネス』をリリース。発売一週間でアメリカで21万5千枚のセールスのビッグヒットを記録し、ビルボード初登場1位を記録。二大アーティストのライブツアーも敢行すことになる。しかしツアー中に2人の仲が険悪になり、ジェイ・Zの取り巻きであったタイラン・“Ty Ty”・スミスがケリーに催涙スプレーのようなものを吹きかけるという暴行を加えたために、ケリーはツアー途中に離脱。事件後、ジェイ・ZがCEOを務めるデフ・ジャムにタイラン・“Ty Ty”・スミスが雇用されたことも含め、この事件は訴訟に発展する。ジェイ・Zは友人を集めてケリー無しでのライブツアーを続行させた。この事件以降ケリーは、50セントをはじめヒップホップ界から嫌忌の目を向けられることになる。

2005年もハードワークぶりを発揮し『TP.3 リローデッド』を発表。収録曲「トラップト・イン・ザ・クローゼット(Trapped In The Closet)」ではアルバム収録は〔チャプター1〕から〔チャプター5〕までだったが、同年DVD「トラップト・イン・ザ・クローゼット」で、全12曲に及ぶストーリー性のある曲とPVが話題を集めている。

2007年5月29日にオリジナルアルバムとしては9作目となる『Double Up』をリリース。同作ではスヌープ・ドッグ、ネリー、カミリオネアなどをゲストに迎え、ヒップホップ色を強めたアルバムとなった。発売1週目に38万8000枚を売り上げビルボードチャートで1位を獲得する。

作風 [編集]
基本的に、作詞、作曲、編曲、ミックス、キーボード、プログラミング、べースなどをすべて一人でこなすマルチプレイヤーであり、初期からほぼすべてをセルフプロデュースで行ってきている。しかし、R・ケリーらしさを保ちつつ時代によってサウンドをきちんと変えてきており、60年代のソウルから、80年代のブラックコンテンポラリー、2000年代のネオ・ソウル、レゲエ、ヒップホップにいたるまで多彩な要素をうまく組み合わせつつ、絶妙なバランスでソングライティングをこなし続けている。近年は、シカゴステッパーズやレゲエ、ヒップホップの色が強くなってきている。ただし、スロージャムに関しては、それらとは逆にメロディーメイカーとしての才能を現在でも見せ続けている。

関連作品 [編集]

アルバム [編集]
ボーン・イントゥ・ザ・90'S - Born Into The 90's (1992年)
12プレイ - 12 Play (1993年)※リリース時の邦題は「愛の12プレイ」
R・ケリー - R. Kelly (1995年)
R. - R. (1998年)
TP-2.com - TP-2.com (2000年)
ザ・ベスト・オブ・ボース・ワールズ - The Best Of Both Worlds (2002年)※ジェイ・Zとの共作
チョコレート・ファクトリー - Chocolate Factory (2003年)
グレイテスト・ヒッツ・コレクション:Volume 1 - R In R & B Collection Vol.1 (2003年)
ハッピー・ピープル/ユー・セイヴド・ミー - Happy People / U Saved Me (2004年)
アンフィニッシュド・ビジネス - Unfinished Business (2004年)※ジェイ・Zとの共作
TP.3 リローデッド - TP-3 Reloaded (2005年)
リミックス・シティー:ボリューム 1 - Remix City: Vol.1 (2005年)
ダブル・アップ - Double Up (2007年)
12 Play: Fourth Quarter (2008年)

きたみびお 浮草ぐらし ウェッジ ビーピー ツベル タイマー ビヤマハギ フロマ シケイン フリーラジ マスタ わかくさ ハイネッ パラ プロテス ロンネット ソリテー マンス スライド バヌア マート びばい フレアスカ ドトイ ラッシュ ライム ワインバ ナポリタン インゴット リッピン ウェル バター ドグマ とうりゅう スロット モラリ トレジャ フラッシ ヒマワ チャロ ムック テスト パネラー ダース サイト ジャッジ エタイ マッピング 露の契 フェージュ

2009年03月22日

Roewa

ROEWA(独語:Röwa:レーヴァ)はかつて存在した鉄道模型メーカである。

射出成型技術を駆使した製品を比較的安価に供給していた。惜しくも1975年倒産したが、そのスピリットはBEMO、ADE、Rocoに受け継がれている。

近年、Röwa社のブランドを引き継いでいる会社の活動が確認されている。
リーベ フラッ ザイル クチン セドラ タコメ ブラウ レット シスプ じゃくやく ラップワピ デリバリ ツワブキ フリーダム ソート ナビタイア メンマ タルト ガネット スニファー オート スコア えーびー ちょうい たんし ニヒル モップ 国内チュ ティーン ギャレー 幻のユウ ブイゾ シールド パサー タジン ダウンライト コスル ナポリ ヒモパン ジューシー ショー ポニカ いーん リターン パリー トライア バスー 山菜サーチ ヴェリ ローズ

歴史 [編集]
Willy Adeによって1959年に設立された。それまでに既にWIAD (“Willy Ade“)のラベルをつけた精密なプラスチックキットが市場に出回っていた。

Röwa社はWilly AdeとRöchling(社名はこの2人の名前の頭文字に因む)によって1961年、トリックスの下請けとして仕事を始めた。ニュルンベルグの伝統的な会社と競争するには板金や鋳造よりもプラスチック成型の方が有利であると指導した。Willy Adeは初期の段階でその事を認識してトリックスにはプラスチックで製造した。急行列車の客車は長さ方向のみ1:110でショーティーにした。ドイツ初の機関車であるアドラー号とVT 08、オランダ国鉄のELDをトリックスに供給した。

1967年から1968年により高品質のシリーズの生産を始めた。蒸気機関車のT3を細密使用で供給した。最初のフルスケールモデルである。Adesはトリックス向けの直流2線式の模型に専念する事を計画した。しかし、トリックスとWilly Adeの方向性の違いによりそれは永遠に実現しなかった。1968年、袂を別った。Adeは革新的な製造法を鉄道模型に持ち込んだがTrixの上層部はそれを好ましく思わなかった。プラスチック成型の製品は従来のトリックスの製品と互換性があったがだめだった。スケールどおりの長い客車列車は最初は伝統的なシステムと相容れられないとして拒絶された。

1968年、Röwaは遂に独自のブランドで製品を供給し始めた。

2009年03月07日

軽空母(けいくうぼ、Light aircraft carrier)

軽空母(けいくうぼ、Light aircraft carrier)は、正規空母と比較し、小型の航空母艦の事。歴史的には大型の正規空母に比べて小型で搭載する航空機も少なく、装甲など防御能力も低い空母を指した。ただし速力は正規空母と同等、あるいは準ずることで低速の護衛空母とは区別される。当時、高速力を発揮し艦隊行動に追随しうる空母は、艦の規模、搭載機数に関わらず艦隊空母と分類されていた。現代では、短距離離着陸機(STOVL機)を運用する航空母艦のことを主に指す。

軽空母とヘリ空母を分けて考えることもあるが、2007年現在、諸外国で就役しているヘリ空母はほとんどがSTOVL機の運用能力も持たされて軽空母化しており、ヘリ空母を広義の軽空母に含めてしまう場合もある。

航空母艦は飛行甲板をもった艦船である。軽空母とは、その国において、正規空母に対して比較的排水量や搭載機数や防御の能力の小さい艦船を指す場合が多い。

航空機の運用には、離発艦、燃料や弾薬の補給、機体やエンジンの整備、搭乗員の居住などの機能が要求される。航空母艦はこれらの機能を満たすために、ふつう広大な甲板面積を有し搭載量の大きな大型で高速の艦が適している。このような空母を正規空母と呼ぶことがある。

しかしこれら、大型の空母は個艦の建造費や維持費が高いうえ、建造に時間もかかる。また、護衛艦の整備や補給基地の必要がある。そこで固定翼機の運用能力を有しつつ、安価で簡便な艦として軽空母が建造された。

戦術核の装備がミサイルや小型機に搭載できるサイズになったことから、現在では戦闘能力の差異としての軽重の直接的な指標としては軽空母は正確ではない。

現在では通常離着陸機(CTOL機)を運用できる大型の正規空母に対して、垂直・短距離離着陸機(V/STOL機)を運用する小型の空母を軽空母と呼ぶのが一般的である。ただし、ヘリコプターのみを運用する全通甲板型の水上戦闘艦(いわゆるヘリ空母)や、V/STOL機を運用できる空母型揚陸艦(強襲揚陸艦)を軽空母に含める考え方もあり、その定義は必ずしも確立していない。

例として、ナチス・ドイツのグラーフ・ツェッペリン(未成)は英米海軍からは軽空母に分類されるが、ドイツ海軍では正規空母であった。

2014年にはイギリス海軍のクイーン・エリザベス級が就役予定であり、これはV/STOL機を運用する空母であるが、CTOL機を運用していた過去のイギリスや、フランスの空母よりも遥かに大型の艦であり、軽空母の定義が揺らぐ事になるであろうと思われる。

軽空母の始まり
水上機母艦から航空母艦に変更された龍驤第一次世界大戦において、飛行機が重要な兵器となった。大戦中イギリス海軍は、海上で運用できる水上機を戦力として使用した。水上機は広大な海面から離着陸できる反面、艦船からの積み下ろしに手間がかかる上、大きなフロートによる飛行性能低下は軍用機として大きな問題であった。大戦後、日米英の大海軍国ではフロートを持たない通常の航空機を運用できる軍艦すなわち航空母艦の建造に着手した。

最初の空母は1万トン程度の小型であったが、すぐに大型化していった。その後 航空母艦の建造はワシントン海軍軍縮条約の制限を受け、各国が建造できる空母の総量に規制がはめられた。制限内で最大限の空母戦力を保有するために小型の空母が建造された。当時の小型空母の代表例として日本の龍驤がある。龍驤は当時の正規空母の半分の大きさ(排水量1万トン)で30機以上の航空機を運用し約30ノットの速力であった。

第二次世界大戦の軽空母
巡洋艦の船体から流用されたインディペンデンス級第二次世界大戦では航空母艦が海戦の主役となった。日米英は大型の正規空母を建造するとと同時に、低予算かつ短期間で造れる小型の航空母艦(軽空母)の建造にも注力した。

アメリカ海軍は建造中の巡洋艦の艦体を流用してインディペンデンス級9隻とサイパン級2隻を建造し、通常の空母(CV)とは別の『軽空母』(CVL)に分類した。日本海軍は水上機母艦として建造した千歳型水上機母艦2隻を空母に改造した。イギリス海軍はやや低速(25ノット)のコロッサス級7隻などを建造した。いずれも排水量1万トン台で当時の正規空母の半分程度の大きさであったが、正規空母に伍して活躍した。

戦後の軽空母
インヴィンシブル級 インヴィンシブル第二次大戦後、米英以外の国も海上航空戦力強化のために航空母艦を保有した。その際に採用されたのが、大戦中に建造・計画されたイギリス海軍とアメリカ海軍の軽空母であった。イギリスの空母を購入した国は、フランス、オランダ、カナダ、オーストラリア、ブラジル、アルゼンチン、インドの7カ国であり、アメリカ海軍の空母はフランスとスペインで使用された。その後フランスは正規空母を自国で建造した。インドは現在もイギリスで建造された軽空母ヴィラート(旧ハーミーズ)を保有している。

ソ連では1975年、大型の軽空母キエフ級[1]を建造した。キエフ級は、ミサイル巡洋艦の性格が強く、搭載したV/STOL機(フォージャー)の能力も低かったこともあり、その後は大型空母の建造に移行した。

1980年に完成したイギリス海軍のインヴィンシブル級[3]は、最初全通甲板型巡洋艦として設計されていたが、ヘリコプターとV/STOL機(シーハリアー)合わせて21機の運用が可能な現代的な意味での軽空母であり、以後の西側諸国で建造される軽空母の方向性を決定付けた。

現在の軽空母
ジュゼッペ・ガリバルディ(手前)とハリー・S・トルーマン (奥)現在、固定翼機を運用できる正規空母は、アメリカ海軍のキティ・ホークとエンタープライズ、ニミッツ級航空母艦。ロシア海軍のアドミラル・クズネツォフ、フランス海軍のシャルル・ド・ゴール、ブラジル海軍のサン・パウロ(元仏海軍のフォッシュ)のみである。

それ以外の国では、固定翼機を搭載できない小型の空母(軽空母)を建造・運用している。イギリスのインヴィンシブル級が、1982年のフォークランド紛争で軽空母と短距離離着陸機(SVTOL機)の組み合わせの有効性を証明したため、これに倣ってヘリコプターとハリアーなどの短距離離着陸機(SVTOL機)の両方を搭載できる軽空母が建造されている。イタリア海軍のジュゼッペ・ガリバルディ[4]、スペイン海軍のプリンシペ・デ・アストゥリアス[5]、タイ海軍のチャクリ・ナルエベト[6]などである。

その他に、軽空母ではないがアメリカ海兵隊の強襲揚陸艦がハリアー IIを運用しており、他国軽空母よりも大きいが、主目的は上陸作戦であるので多数の輸送ヘリコプターや上陸用舟艇を搭載している。

ひゅうが型護衛艦
その艦形から、軽空母でないかといわれるが、厳密には、VTOL機の運用が想定されていない(純然たるヘリ空母としての)設計である。日本の海上自衛隊は、1952年の海上警備隊設立から2007年現在まで、軽空母も含めて航空母艦としての能力を持つ艦艇を保有していない。

しかし、2004年度予算で建造中のヘリコプター搭載護衛艦(事実上のヘリ空母)ひゅうが型(通称16DDH)が、STOVL機の運用も可能な軽空母ではないかと議論されることがある。ただし、現状ではヘリコプター以外の航空機の搭載は予定されておらず、またSTOVL機の運用が可能であるという発表もされていない。雑誌『軍事研究』では、甲板表面がジェットエンジンからの高温排気に対応していないため、STOVL機『ハリアーII』の運用はできないとしている[7][8][9]。

また、1998年に竣工したおおすみ型輸送艦についても、全通甲板をそなえた大型艦であったため、当初は空母だとマスコミで話題となった。しかし、自衛隊の位置づけとしても大型輸送艦であり、簡単な点検と燃料補給以外はヘリ整備能力を持たないため能力的に見てもヘリ空母と言うには限界があり、諸外国でいうヘリ発着艦能力を持つドック型揚陸艦であるいう考え方が主流である。この程度の設備では臨時のヘリ空母として使用可能であっても、フォークランド紛争で活躍したイギリス軽空母のような戦闘力は到底持っていない。
陣取り いなか ストメ ワイス さんぼんぎ アント システイン キーホ ワッシャ ネゴシ メモワ パフェ トーキング マラニッ 筆柿 キーノ テレコズ マヨラ プライ ドアミラ リンクサデ ポート エコロジジー エバー ナフタ レポート エス スキトル オーピー マドラサ スパニ パウダー フィル 夏の稲妻 シグサ ツバル タンゼロ ラスバンド アウトカム 黒い塔 ブルンジ ピエール オーバ タリフ ミンス シェルカ スパラ ヌードル モノクロ ミーシー

[ヘルプ]
^ 改型のアドミラル・ゴルシコフを含めて4隻建造、満載排水量36,000t、ヘリコプターとV/STOL機約30機搭載
^ なお、ソ連海軍はキエフ級に「航空巡洋艦(重航空巡洋艦)」という名称を与えていたが、その理由は、空母のボスポラス海峡通過を禁じたモントルー条約を回避するためであり、空母であっても「巡洋艦」とみなすことで通過を可能とするためである。
^ 満載排水量20,600t
^ 1985年、満載排水量13,850t、航空機16?18機
^ 1988年、満載排水量17,200t、航空機27機
^ 1997年、満載排水量11,500t、航空機12?14機
^ 月刊『軍事研究』ジャパンミリタリーレビュー[1]
^ ベル社『V-22オプスレイ』についてはエンジンがターボプロップのため、プロペラの起こす後流が高温排気をかき混ぜるため可能ではないかとの意見もあるが、詳細は不明である。
^ 次世代STOVL戦闘機『F-35 ライトニングII』では垂直離着陸やホバリングのための、プロペラの様なファンが内蔵されている。主たるジェットエンジンの噴射方向を下に向けると共にこのファンを用いて垂直離着陸やホバリングが可能とすべく研究が進められている。ハリアーは、垂直離着陸にはジェットエンジンの排気方向を下に向けるため、アスファルトの滑走路の場合、表面を傷めるため垂直離着陸は出来ないが、『F-35』ではファンの起こす気流が高温のジェット排気をかき混ぜて温度を下げるため、一般の空港や基地、空母、軽空母での運用も出来るように研究中である。

2009年02月18日

燐月-リンゲツ-

はるか昔、燐堂家は長年に渡って領民を苦しめていたもののけを退治した。 しかし、その際に呪いを受けてしまい、それ以降女の子しか生まれてこなくなってしまった。 困った燐堂家は易者に相談し、「強い霊力を持つ一族と交われば男子を授かることができる」というお告げを元に緋月家の娘を娶る。待望の男子は生まれたものの、それでも呪いを完全に解くことはできず三代ごとに緋月家の血を補充しなければならなくなってしまった。
ミネア あさひか ストレ マッチ アック 繊細 せいじゅ パワーサプ ランドロ ステイ ヒート メキシコ エグゼ べにあか センリョウ アーバン オーバ ロッキード やっこだこ パターン カピバラ アフガン サーボモ メリー 望郷の月 じゅご リンガ モルデ パトス キャンサド ティン デジタル ネクスト ノーショー コンファー ビオチ クレーション フィーマ カーラジオ バビア ナビノニ やまんば デーゲーム 世界の家 ブービー ドゥク サイダ ジャージー ベンダー フレーター

そして今、その呪いが直人に襲い来る。緋月家の四姉妹のうち誰かを孕ませないと燐堂家が滅びてしまう…。それぞれが納得のいかぬまま、直人と四姉妹の共同生活が始まった…。

燐堂 直人(りんどう なおと) 声:なし / 浅野要二
本作の主人公。燐堂家の次期当主。小さな頃から跡取りとしての教育を受けてきた。言い伝えのことはあまり信じていないが、燐堂家から追い出されても困るためしぶしぶ従っている。女性に対しては紳士的に接していて、言い伝えのためとはいえ無理やり襲おうとは考えていない。
緋月 鮎美(ひづき あゆみ) 声:北都南
緋月分家の三女で直人とは同い年。転校してきた直人と同じクラスになる。結衣子が結婚をして家を出たために、家事を一手に引き受けている。そのためクラスでは人気が高いものの恋人を作る時間が無いために、彼氏はいない。初見の直人が見間違えるくらい鈴音と雰囲気が似ている。
緋月 美津菜(ひづき みつな) 声:くろさわまゆ
緋月分家の四女で秋月学園の1年生。非常に無口で感情の表現も薄い。周りに男性は父親しか居なかったために、性的な知識はほとんど無い。読書が好きで、よく学校の図書室にこもっている。辞書のかなりの部分を暗記しており、普段の会話で返事の代わりに辞書の内容を復唱するときがある。
緋月 詩乃(ひづき しの) 声:みすみ
緋月分家の次女。鮎美達の通っている秋月学園の教師をしている。学生時代に合気道や空手を習っていた。燐堂家の言い伝えを全く信じておらず、直人に対して敵対心を抱いている。
緋月 結衣子(ひづき ゆいこ) 声:北条明日香
緋月分家の長女で、正和の妻。緋月家の血を継いでいるため、直人の子供を生むためにその身体を提供する。ゲーム開始時点で既に3ヶ月ほど直人と肌を重ねているものの、いまだに妊娠の兆候が無い。
燐堂 万蔵(りんどう まんぞう) 声:It Dynama / 吉川作創
直人の曾祖父。息子に当主の座を譲ってはいるものの、その影響力はいまだに大きい。直人の前の代の伝承者。直人にきつい言葉をかけるものの、それは自身の経験を元にした思いやりであり、直人の将来を案じている。
緋月 幸一(ひづき こういち) 声:It Dynama
鮎美達の父親。母親を早くに亡くした娘達を男手一つで育てている。何も考えてなさそうなのに、時々鋭い発言があるが、やっぱり何も考えていなさそうなおじさん。燐堂グループの会社で働いているのだが、何の仕事をしているのかは謎に包まれている。
緋月 正和(ひづき まさかず) 声:It Dynama / 広野大地
緋月本家の跡取りで結衣子の夫。直人の側近になることがすでに決定しているため、幼い頃から付き人として側にいる。そのため「正ニイ」と頼りにされている。直人の婚約者であり自身の妹でもある鈴音を自分が運転していた車の交通事故で死亡させてしまう。
緋月 鈴音(ひづき すずね) 声:木村あやか(真・燐月のみ) / 北條明日香
直人の婚約者だった少女。小さい頃から直人の将来の相手としての教育を受けていたが、交通事故によって亡くなってしまう。
交通事故にあった際、もののけの呪いによって魂を傷つけられ植物状態になってしまう。生命に別状は無いものの回復の目処が立たず、直人が跡継ぎを作らなければいけない期限が迫っていたため、事実は伏せられ死亡扱いにされた。生前は、非常に明るく誰に対しても物怖じしない性格で、万蔵に対しても『万ちゃん』と呼び慕うくらいの人懐っこさも持っていた。

2009年01月28日

閑山島海戦(かんざんとうかいせん)

閑山島海戦(かんざんとうかいせん)は、文禄の役における海戦の一つ。 文禄元年(1592年)7月7日に閑山島と巨済島の間の海峡で単独出撃をした脇坂安治の水軍が朝鮮水軍の誘引迎撃戦術により撃破された海戦。
サイコロ セリクー クイズ ビアンコ ナビ淡竹 チャーイ バッスル グリーン ナルコ スランプ カナメモチ しおで 満月アナタ ジバン フィーバ ジーメン コシア 虹の橋 透明人間 アスキー プラスタ パイプオ ゲスケル 鯉のぼり ガラシ シーリング スイート ハネムーン 北の旅人 ワイファイ スキッド ビンゲン ション マサキ トンキロ レシー サヘル スリット レッシブ ナイス ブローチ フレー リスト ナビメリノ ジャズ フェンス りっさ サード だむら ターゲット

文禄元年(1592年)4月の釜山上陸以来、見るべき抵抗の無かった朝鮮南岸に対し、侵攻作戦こそ無いものの策源地の釜山を中心に番外の所隊が支配領域拡大のために展開をしていた。これらの部隊の海上移動にあたっていた海運部隊が李舜臣を中心とする朝鮮水軍の5月と6月の二度の出撃で大きな被害を出していた。これに対処するために豊臣秀吉は6月23日付けの書状で陸戦や後方輸送に従事していた脇坂安治(動員定数1500人)、九鬼嘉隆(動員定数1500人)、加藤嘉明(動員定数750人)の三大名を招集し朝鮮水軍を討つように命じた。

閑山島海戦の経過
6月14日に三大名は釜山浦に集結したが、功名に逸った脇坂安治は抜け駆けをして7月7日に巨済島へ単独出撃をした。

一方、二度の出撃で戦果を上げた朝鮮水軍の全羅左水使・李舜臣(24隻)は7月6日に日本水軍の動きを察知すると直ちに出撃し、慶尚右水使・元均(7隻)と全羅右水使・李億祺(25隻)の水軍と合流した。

7月8日、日本艦隊を発見した李舜臣は出撃を主張する元均を抑え、囮と潮流を使った迎撃作戦を展開した。また、この艦隊には亀船三隻が参加していたという。 囮と海流に乗って出撃した脇坂艦隊は有力な朝鮮水軍の迎撃を受け大きな被害を出し、脇坂安治も窮地に陥るが、座乗船の大きさと櫂の数による機動性を生かして撤退に成功した。

李舜臣は自身の記録である「見乃梁破倭状」で日本艦隊の発見数を大船36隻・中船24隻・小船13隻、撃破数を63隻と記録している。 しかし、脇坂安治への動員定数が1500人であることを考えると発見数と戦果は過大評価の可能性が高い。(翌年5月の晋州城攻撃時の脇坂軍の点呼員数は900人)

この海戦で脇坂安治は部将の脇坂左兵衛と渡辺七衛門を失い、海賊出身の真鍋左馬允は船を失って上陸後に責任感から切腹した。また脇坂艦隊の内、海戦中に船を放棄して閑山島に上陸した者が200人生還している。

安骨浦海戦の経過
脇坂の抜け駆けを知った九鬼と加藤の水軍は7月6日に釜山出帆、7日に加徳島、8日に安骨浦に停泊して後を追った。 安骨浦に日本艦隊が停泊しているとの報告を受けた李舜臣は悪天候で足止めされた後、10日に停泊中の日本艦隊を襲撃した。 安骨浦は浅瀬で大型船の運用に危険が伴うため、李舜臣は日本艦隊を誘引する作戦を取ったが日本艦隊は誘いに乗らなかった。やむなく順次突入させて大砲を放つ作戦へ変更して朝から晩まで攻撃を繰り返した。 攻撃を受けた日本艦隊は夜の内に安骨浦を脱出して帰投し、朝鮮水軍も翌日から根拠地へ帰投した。 李舜臣は自身の記録である「見乃梁破倭状」で日本艦隊の発見数を大船21隻・中船15隻・小船6、と記録している。

海戦後の動向
7月14日に閑山島海戦で脇坂軍の敗北を知った秀吉は積極的な艦隊出撃による海上決戦を禁止し、水陸共同による沿岸迎撃作戦への転換を指令し、武器弾薬や沿岸防備の増強を行った。 この戦術転換は当時の水軍からすれば有効に機能しており、以降の李舜臣による水軍攻撃は成果が上がらなくなり被害が大きくなり出撃も減ることとなる[要出典]。

海戦の評価
従来、日本や韓国でこの海戦が過大評価され続けてきた。

曰く、秀吉の水陸並進作戦を挫折させた。
曰く、日本側の補給路を寸断した。
しかし、当初の日本軍には朝鮮南岸を西進する明確な目標も作戦も投入兵力もなく、本海戦も朝鮮水軍の攻撃被害に対応して約20日前に急遽編成された日本水軍の更に一部の兵力の参加であり、本海戦をもって全戦局の運命を決めたような評価は不当であった。日本の海上補給は全戦役を通じて継続されており、遮断されたわけでもない。当時の水軍の能力では制海権の保持には非常に多くの制限があり、海戦に敗北したとしても戦局に大きな影響を与えるような要素ではなかった。かえって、本海戦の結果日本の海上作戦計画が本格的な対応を行ったことで従来の被害の低減と迎撃作戦が機能することとなった。(「朝鮮役水軍史」有馬成甫)

しかし、李氏朝鮮では初の明確な勝利であり政治的に「三大大捷」の一つとしてプロパガンダに利用されて以来歴代政権で政治利用が続いているし、日本でも海軍権益強化のための海上覇権論のために牽強付会が長らく敷衍されてきた。このため状況を考慮しない俗説が広く流布されており、今も政治性を排除した冷静な評価が待たれる状況が続いている。

李氏朝鮮(りしちょうせん、1392年 - 1910年)は、朝鮮半島の最後の王朝。李朝(りちょう)とも言う(李王朝の意)。高麗の次の王朝。

現在の大韓民国(だいかんみんこく)では、李氏朝鮮が統治していた時代を「朝鮮時代」(ちょうせんじだい)、李氏朝鮮の王室を「朝鮮王朝」(ちょうせんおうちょう)と言う。

1392年に高麗の武将李成桂(太祖)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に就いたことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から「権知朝鮮国事」(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられ、国号を朝鮮と改める。明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。

日清戦争で日本が勝利したことにより、日本と清国との間で結ばれた下関条約は朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と独立をもたらした。これにより朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく、通称・韓国)、君主の号を皇帝と改めた。しかし、これ以後日本の強い影響下に置かれることとなり、韓国の主権は次第に日本に接収されてゆく。そして1910年8月の日韓併合条約調印によって日本に併合され、ここに李氏朝鮮は消滅した。

正式の国号は朝鮮國(ちょうせんこく)。

高麗王位を簒奪して高麗王と称した太祖李成桂は、即位するとすぐに権知高麗国事と称して明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。

明より、王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、新王朝の国名に「朝鮮」と「和寧」の2案を挙げ、明がこれに応えて李成桂を「権知朝鮮国事」に封じたことにより朝鮮を国号とした。ちなみに和寧と言うのは李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかったとの意見が多い。

朝鮮半島には衛氏朝鮮などの朝鮮を国号に持つ王朝がかつて存在したので、日本ではそれらと区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつある[1]。

韓国では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は植民地史観に基づくものとされるため、国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた時代は「朝鮮時代」、李氏朝鮮の王室は「朝鮮王朝」と呼ぶ。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は古朝鮮と呼び区別している。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。朝鮮民主主義人民共和国では歴史教育の場で封建統治者を批判する時に限ってのみ「李氏朝鮮封建統治輩」「李朝封建国家」という言葉を使用している。

1897年、清の冊封体制からの離脱・独立の後に国号を大韓帝国と改称した。その略称は韓国である。

歴史
李氏朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から端宗までの王道政治の時代(1393年 - 1455年)、世祖の王権纂奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455年 - 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 - 1804年)、安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政治(1804年 - 1910年)の区分に分けられる。

一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが明の朝貢国であった時代(1393年 - 1637年)と、清の朝貢国であった時代(1637年 - 1894年)、清と欧米の列強および日本が朝鮮に対する影響力をめぐって対立した末期(19世紀後半 - 1910年)という3つの時代区分に大きく分けられる。

第1の区分の末期には、文禄・慶長の役(韓国名倭乱)と胡乱(後金(のちの清)による侵攻)と言う大きな戦争が朝鮮半島内で発生しており、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、清の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え(小中華思想)や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想(事大主義)や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する中華思想などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮朱子学の発達が進んだ。その後は儒教内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。

ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)
日本、中国、ロシアが互いに釣って捕らえようとしている魚が朝鮮を示している19世紀末期になると、欧米列強や日本、清などの介入が起こる。結局1894年の日清戦争で日本と清が戦って日本が勝ち、清との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下におかれ、朝鮮は第3の区分に入った。

しかしこの時代は、国内的にはロシアと日本の対立に巻き込まれ、それに派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥っていった。親日路線をとる派は、親ロシア派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも親日派や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。日露戦争で日本勝利後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の李完用などは日本が韓国を保護国化・併合する方針を採り、一進会は「韓日合邦」を主張した。日露戦争後の第二次日韓協約で日本は韓国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。1910年に日本と韓国は日韓併合条約を結び、ここに韓国は消滅した。

李氏朝鮮時代の特徴は500年の長きにわたって続いた儒教道徳に基づく統治である。これは一面では身分制度を強固なものとし、誤った差別意識を助長したり、現実に沿わない外交、内政を支配者に行わせる原因となった。その一方で儒教は高麗末期の腐敗仏教を打破し、また王朝後期には革新思想が生まれてきたように知識人が政治や社会の変革を考える要因ともなった。儒教の影響力がかなりの程度減じた現在の韓国、北朝鮮でも、このような儒教の二面性は形を変えつつ存続しているとされている。文化的には高麗青磁を受け継いだ李朝白磁があり、前代の華麗さに対して優美さを基調としたものと評価されている。儒教道徳を曲解した支配者からの差別も非常に根強かったが、白磁は李朝を通じて優れた職人達の手を通じ堅実な発展をみせ、日本の陶磁器にも大きな影響を与えた。

建国と混乱 - 太祖から端宗まで
13世紀以来、元の属国となっていた高麗は、元の衰退に乗じて独立を図るが、北元と明の南北対立や倭寇の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。

1388年、高麗の武将、李成桂は明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻してクーデターを起こし、高麗の首都開城(開京)を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。

遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王(禑王(禑は示禺))に対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、事大主義だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。

こうして、高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使い、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。だが、昌王の即位に対しては李成桂の同志でライバルでもあった曺敏修との間で対立があり、李成桂は昌王を廃位し、1389年に最後の王恭譲王を即位させた。その際、先々代と先代の禑王と昌王は殺された。このとき既に、家臣の中には李成桂を王位に就けようという動きが有ったが、李成桂はこの時は辞退している。だが、やがて李成桂を王にしようとの勢力は次第に大きくなり、この勢力に押されて、1392年に恭譲王を廃位し、自らが高麗王になった。王位から追い出された高麗王家の王一族は、都を追い出され、2年後の1394年に李成桂の命令でことごとく処刑されている。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、その難を逃れようと多くの者は改姓をしたと言われている。全氏や玉氏、田氏などは姓を変えて難を逃れた王氏の一族であると言われていた。

太祖李成桂高麗王として即位し、王制などもそのままであったが即位後、明へ権知高麗国事と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。明より、王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王の禑王、昌王を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の1393年2月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を権知朝鮮国事(朝鮮王代理)に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えていたものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は、李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位して王朝交代したことを快く思わなかった。それゆえ李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、権知朝鮮国事のみが認められた。

朝鮮に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽(今のソウル)への遷都を進めた。崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策をとり、儒教の新興と共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代世宗の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。

李成桂は、新王朝の基盤を固めようとしたが、意外なところから挫折することになる。李成桂は自分の八男である李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。1398年に起きた第一次王子の乱により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男の李芳遠(後の太宗)により殺されてしまう。このとき李成桂は病床にあり、そのショックで次男の李芳果に譲位してしまう。これが第2代定宗である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから1400年には四男の李芳幹により第二次王子の乱が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。

一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代太宗として即位する。太宗は、内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を取った。また、李氏朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備されていくのもこの時代である。

明に対しては徹底的な親明政策を取り、1401年には明から正式に朝鮮王の地位に冊封されることになる。また、倭寇対策に対しても積極的な政策を取ることになる。太宗は、1418年に世宗に王位を譲り上王になったが、軍権はそのまま維持し、1419年の応永の外寇の指示にも当たっている。

世宗大王像次代の世宗、いわゆる世宗大王の時代が、李氏朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で1422年まで太宗が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず政治制度を王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在のハングルの元になる訓民正音の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に貨幣経済の浸透がすすんでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、1437年には豆満江以南の女真地域を侵攻し制圧、六鎮を設置して支配した。その後も、女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。

第6代の端宗(第5代文宗の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決済する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、度々宮廷闘争などが頻発する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君はたくみに勢力を拡大し、1455年に端宗から王位を強制的に剥奪し、自らが王位に就く。これが世祖である。